三次元世界の淵に眠る

雑記ばかりを垂れ流します。ツイッターから一度離れてみようとした結果こうなりました。

『天気の子』と新型コロナウィルス

新海誠の『天気の子』は、前作の『君の名は。』に続いて大ヒットした。多くの考察や批評がネットでも見ることができる。ワテはそれらの批評もつまみながら、現在「世界」的な災害となっている新型コロナウィルスと結びつけて、駄文を残す。

 

ネタバレだらけになるため、まだ観ていない方は注意していただきたいと思う。

 

 

 

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↑自宅から撮った『天気の子』っぽい雲。夏になるとアニメで見られるような雲がよく浮かんでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ー 「愛にできることはまだあるかい」 ー

 

今、「世界の形を決定的に変えて」いきつつある。それは主人公とヒロインという限定的な者たちによるものではなく、我々一人ひとりによって。

しかも、おそらく「世界」は、帆高が見たラストの水没した都市のように劇的に変わるのではなく、思想や価値観、法律や制度といった目に見えにくいところから変わっていくと感じる。それはたった1〜2ヶ月で変わってしまったテレビや新聞をはじめ、インターネットの状況をワテが現在進行形で見ているからだ。

 

ある娯楽施設は、その店名を公表され、世間から社会的制裁を今受けている。

ある飲食店は、家賃や人件費を払えない中、今なお満足な補償のないまま自粛している。

ある自治体は、県内在住者用にステッカーを作成し、県外ナンバーへの犯罪行為や嫌がらせがある中で、県外と県内と分け人々の差別意識を助長し分断させている。

新聞やニュースでは常にそういう内容が繰り返し報道され、Twitterをはじめネット上では(ある意味平常運転かもしれないが)そういった個人の自由を侵害する内容を支持している。

多くの教育現場は停滞を余儀なくされ、ただでさえ格差が深刻な教育の供給は、これから更にその格差が広がり、深刻な状況に陥る児童生徒が増えていくことだろう。

経済はひどく落ち込み、多くの店が閉じ、多くの人が解雇され、それによって経済格差が広がり、今まで以上に人々が貧しくなっていくことだろう。

 

あの水没した東京では描かれなかった部分が、現実の世界で次から次へと出てくる。だからこそ今、変わりつつある世界で、ひどく人々が傷ついていく世界で、この歌詞を思い出したい。

「愛にできることはまだあるかい」

 

 

- 「セカイ」と「世界」 ー

『天気の子』で描かれた「水没した東京」。そこでは延々と続く雨の中、大きく変わってしまった東京でも人々は“新しい生活様式”に順応していた。それは陰鬱としているものの、日常を営んでいるように見えた。

現実世界でも、“新しい生活様式”の実践が唱えられている。新型コロナウィルスも、これから常に気を付けていく必要がありそうだ。日々のニュースやネットを見ても、新型コロナウィルス流行前とは明らかにその雰囲気は違っている。テレビでは常に人の行き来が数値化されて監視されているところからも明らかだろう。

 

セカイ系」作品である『天気の子』は、天候という一見すると人類が手出しできない自然現象によって、東京という彼ら彼女らの住む「世界」が決定的に変わっていった。しかし下記の参考文献ではこの「自然」がミソであり、またそれを陽菜という天候を操ることができるヒロインによって象徴的に表している。一方の現実世界は、ウィルスという自然物と、現代人の営みが合わさることで驚異的な速さで「全世界」が変わっていった。

『天気の子』で象徴的な「自然現象の変化」は、フィクションの想像を超えてすぐに現実のものとなったと言えるだろう。むしろ、この現実こそが『天気の子』のテーマに恐ろしいほど合致していると言えるかもしれない。

 

 

 

ー 我々は「大丈夫だ」と言えるか ー

物語の最後、帆高は言う。「僕たちは、大丈夫だ」と。この台詞や作品への批評については、下記の参考文献に解説されている。正直ワテは完全に理解してないと思うので、ワテが説明するより実際読んだほうがいいだろう。雑で端的に言えば、「若者と大人たちの対比」であり、且つ「社会への批判」であろうか。

ともあれ、タイトル通り我々は帆高のように「大丈夫だ」と言えるのか、と言うことを考えていきたい。

 

我々は無意識のうちに、滝のような情報量に絶えず浴びせ続けられて、そして流されてはいないだろうか。お決まりになった「新聞・テレビ・ラジオ」などのマスメディアとTwitterを筆頭とするSNSなどからなるソーシャルメディアで、我々は無意識のうちに無関心な大人になっていないだろうか。ただ現状を「自然と」受けれ入れていって、この社会の現状を当たり前にしてしまってはいないだろうか。

今こそ、我々は帆高のセリフに直面していると言えるだろう。「僕たちは世界を変えてしまったんだ」。我々は、マスクで隠された口から「大丈夫だ」と言って、この社会の責任を主体的に引き受けていけるだろうか。

 

我々は帆高のように生きていくことも、水没した東京で暮らす大人たちのように生きていくこともできる。そのためにも、とりあえずもう一度『天気の子』を観る必要がありそうだ。

 

 

 

 

 

 

参考文献

映画『天気の子』を観て抱いた、根本的な違和感の正体,戸谷洋志

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66422

 

なぜ帆高は「僕たちは世界を変えてしまった」と2度言うのか──『天気の子』における自然と責任の衝突,杉田俊介

https://unleashmag.com/2019/08/23/tenkinoko_review/