オタクをやめられない社会人について
ツイッターから流れてきた、このようなブログを読んだ。
https://anond.hatelabo.jp/20190902224917
「にゃるら」とは、精力的に活動しているオタクのライターだ。それくらいしか知らない。ただツイートは時々お気に入り登録している。
実際このブログもそのにゃるら氏から流れてきたものをワテは読んだ。
内容は簡潔に「いつのまにかオタクではなくなった社会人である自分」について語られていた。わざわざ自分がこのブログで紹介したのは、ある一定の共感を持ったからだ。
特にワテが共感できた箇所を紹介する。ただこれはコメントへの返信なので本文のものではないが。
働いてる。給料は高くも安くもなく、
忙しいわけでも暇なわけでもない。
こういうフラットな日々の中で人は
少しずつ緩慢になり、心臓を止める
のだろうという諦観がある。
この文章は今年の7、8月ごろにワテが強く感じていた、「社会人」という呪いについて分かりやすく書いていると感じた。そうなのだ、幸せなことではあるのだろうが、その反面そこそこの給料とそこそこの仕事量が、オタクとしての活力を失わせているのをひしひしと感じていた。
大学の頃から、アニメや漫画から離れつつあったのは確かなのだが、今と決定的に違うのは選択肢としての優位度だ。大学の頃はアニメや漫画に触れようと思えば触れられたし、その機会も多かった。ただアニメや漫画以外の選択肢が豊富にあったため、見ていなかったに過ぎない。実際、衰退期のニコニコも毎日ではないがチェックしていたし、一気にアニメや漫画に触れ続けることもあった。
だが今は違う。今ワテが一週間のうちにしていることを平均してみると、ツイッターとFGOと、日曜日に見るのんのんびよりりぴーとだけだ。しかものんのんびよりは不定期気味なので見ない時もある。
これがオタクと言えるだろうか?
引用文と似た境遇にいるワテは、この「俺はにゃるらになれなかった」者になりつつあるのだ。本文で示されているような生き方が見えてきている。「生きることに慣れすぎてしま」いつつあるのだ。「思い出の中に埋没することで安寧を得」つつあるのだ。その鬱屈したリアルが常に自分の体へ着々と付着していっているのが分かる。
応募しようとして、結局書きかけのまま死に体になってしまっている小説が、自分そのものを表してしまっている。「社会人」だとか「安定」だとか、「保障」だとか「将来」だとかという、絶大な効果を持つ不安感がまとわりついていく。不確かな未来を担保できるかも怪しいのに。
ニコニコもだいぶ見ていない。「狂乱と倒錯の中で生きること」は、大学卒業と同時に失っていたのだろう。
しかし、このブログに反論するならば、「オタクはいずれ卒業するべき」ものではないと言いたい。同じ境遇になりつつあるが、こんな「正しい姿」には拒否反応が出る。
何故なら、まっっったく楽しくないからだ。「生きることに慣れる」ことは、とてつもなくつまらない。ワテが少しでも人生をつまらなくないものにするには、やっぱりオタクであることだと思う。
大学は卒業したが、オタクは留年し続けていきたい。にゃるらにはなれなくても、のんのんびよりりぴーとを見ている間はオタクになれるのだから。