三次元世界の淵に眠る

雑記ばかりを垂れ流します。ツイッターから一度離れてみようとした結果こうなりました。

『のんのんびよりのんすとっぷ』感想 〜田舎補完計画〜

 ネタバレ含みます。

 

 のんのんびよりシリーズが漫画、アニメ共に終焉を迎えた。残る希望はOVA化と映画化のみであり、テレビアニメとして4期がある可能性は0に近い。「もはやこれまで」である。

 

 『のんのんびより』シリーズを一言で表すなら、「日常モノとして真摯にリアルのオタクたちに向き合った作品」と言えるだろう。最終話でサザエさん時空から何事もなく脱して、いつものように日常を送る。しかしそこでは一人が卒業し、一人が入学するという新たな日常の到来が予期されている。今まで描かれなかった「卒業」を描き、既に描いた「入学」を見据えさせることで、学校という小さな社会(本作品の世界のメタファーでもある)における儀礼を有効活用している。「○○からの卒業」で終わらず、しっかり作品として世界の存続も担保したのんのんびよりは、求められた理想を見事に描き切ったと言えるだろう。「『さようなら』はまた会うためのおまじない」という某シン映画のセリフが思い出される。

 

 『のんのんびより』という作品は、さまざまな解釈を受け入れる下地がある作品だ。

 ある話はキリスト教的解釈を可能として、聖人誕生のメタファーという裏設定を幻視させる回もある(これは『のんのんびよりりぴーと』での解釈だが)。

 また登場人物と世界観は、一昔ふた昔前の美少女ゲーム全盛期を彷彿とさせ、実は男性主人公の存在しない美少女ゲームの世界なのではないかという00年代オタクの妄想を拗らせる要因ともなっている(ジャスコネタは言わずもがな、キャラデザも起因している)。

 さらに世界観に関連して、具体的な聖地が存在しないこのセカイは、あえてリアルの田舎を媒介しないことで、ギリギリ廃村にならない田舎を完全無欠かつ永久不滅の理想郷として、オタクの心象風景に補完させている。リアルの田舎を聖地化すればそれまでの田舎景観が崩れ、またブームが過ぎた後は時が過ぎすぎてしまい、作品の不滅性を損ねてしまう。どこにでもあって、どこにもないシュレディンガーの田舎にすることで、オタクに「『のんのんびより』の田舎」を残し、存在し続けられるようにしているのではないか。これこそ田舎補完計画と言ってもよいだろう。

 

 このような解釈を可能にする一方、本作品には徹底して日常モノに対する矜持が多分に含まれている。そしてその集大成は哲学者れんちょんによって締め括られているのだ。

「いつもと同じ道じゃないん。雨の時とか曇りの時とか、いつもちょっと違って楽しいのん。今日もいつもと違うお天道日和なん」

 

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原作一巻と最後のコマが繋がっている。さらに作画が変わったのもあるが、頭身が変わったことで登場人物の成長が見えるように感じる。

 

 このフィロソファーれんちょんの言葉が巧みなのは、日常モノに対して、否定と肯定を両立させている点だ。日常と言えども変化は常に起きており、その変化は必ずしもポジティブなものとは限らない。しかしそれでもそれらの日々もまた日常となるのだ。「雨」「曇り」というネガティブなイメージがつきやすいワードをあえて使用し、それをポジティブな方向に持っていくことで、日常に対する捉え方と強く結びつけられている。そして「今日“も”いつもと違う」という言葉選びも素晴らしい。無常であることを理解しつつも、その無常の中に連続性を見出したれんちょんは、小学1年生にして仏教哲学に足を踏み入れているのだ。

 

追記:

またタイトルの『のんのんびより』の「のんのん」の意味は、上記の考察から鑑みて「non  non」、つまり「無に非らず」であったり、「無の連続」であったりという意味になるのではないだろうか。

 

 本作品が連載されてから、リアルは数多くの震災に見舞われ、さらに現在進行形でコロナ禍の中にある。その中で「日常系」そのものへの懐疑的な見方や批判がされているのを目にするようになった。「日常は当たり前なんかじゃない」と。だが、これさえもまた日常なのだと宮内れんげは提言する。「当たり前の日常」という不変のものではない。だがそれでも生きている限り、当たり前ではないにしろ日々は続くのだ。こてこての「日常系」である本作品、引いては原作者あっと氏の、オタクに向けた「日常系」としてのアンサーがここに全て詰まっているだろう。

 

 『のんのんびより』はフィクションである。だがこのフィクションで描かれた日々は、単なる虚構ではない。「どこかで見たことがありそう」「どこかに存在してそう」「どこかに似ている」…虚構の中に現実を見出すことができるのは、本作品が田舎とその中での日々に対する想起を促したからだろう。この点において、虚構と現実は繋がっているのだ。

 

 田畑の畦道を歩くとき、ふっと季節の匂いが鼻をくすぐる。そこで一度立ち止まり、目を閉じ、彼女たちを思い出して呟いてみよう。「今日もいつもと違うお天道日和」と。たとえ不安定で鬱屈として、無常感漂う世界であっても、そこには確かに、元気でたくましい彼女たちの姿が描かれることだろう。

田舎補完計画とは、『のんのんびより』の視聴ないし閲覧によって、本作品のみを触媒にすることで田舎という名の理想的な世界を各個人の内面に創造し、また本作品を通じて統合することで、人類の疲弊感からの脱却を目的とした計画なのではないだろうか。