三次元世界の淵に眠る

雑記ばかりを垂れ流します。ツイッターから一度離れてみようとした結果こうなりました。

『ルックバック』感想 シン時代の「傑作」

 熱しやすく冷めやすいTwitterにおいて、瞬間的に反応された藤本タツキ氏の読み切り作品『ルックバック』。ワテも拝読した。

ネタバレを含みながらではあるが、感想を書いていきたいと思う。

 

1:シン時代の「傑作」

 タイトルでも書いたが、これは読み切り漫画の中でも傑作に入るだろう。起承転結の巧みさ、転で起きた4コマ漫画の伏線回収、物語のテーマに則したタイトル回収、タイトルの持つ意味の多義性、リアルの社会事象を取り込み社会派の一面も併せ持つ…143ページで二人の主人公の人生を彩りきった作品である。恥ずかしながら『チェンソーマン』は読んだことがないが、この作者であればその人気獲得ぶりは納得がいくほどのまとまり具合だと感じる。

 そしてなによりも「シン時代」と銘打ったのは、この作品について皆が語っている点に着目したからだ。タイトルや描写に隠されたネタに気づき語る人、全力で肯定する人、ジェラシーをもらす人…近年のTwitterでの現象として、解説系ツイートは特にバズる。人に何か語らせる作品は名作の証拠だろう。これは『シン・ゴジラ』や『シン・エヴァンゲリオン』でも同じ現象が起きている。当然金曜ロードショージブリ回や大河ドラマなどでも見られるが。ただ作品が公開され、それに触れた者の中から解説者が出現し、作品と解説を合わせて摂取するというのは庵野監督の「シン・シリーズ」で顕著に現れてきたと感じたため、このような銘にした。

 この『ルックバック』も「シン・シリーズ」のように、さまざまなネタが仕込まれた本作について解説し、そのツイートも共に拡散される。以前であればブログや雑誌、同人誌などで行われていたことが、非常にインスタントに行えるようになった。社会現象を起こすのは、もはや難しいことではないのだ。だからこそ「シン時代」と言えるだろう。

 

2:個人と作品の対話から、受動的な講義への危惧

 1点目の「シン時代」についての個人的な危惧も少し綴りたいと思う。確かに良作がバズることは喜ばしいことだ。作品が正当に大衆の評価を得られるのは、漫画文化が途絶えず現在まで残り、さまざまな媒体で読むことができるようになったからだと思う。

 しかし、その結果として、感情の共有や語り合いたいという欲求が簡単に満たせるようになり、個人と作品が向き合う機会や時間が無くなっていっている印象も受ける。当然、以前から2ch(5ch)などでは感想の語り合いがあったわけだが、Twitterに於いては、語り合いではなく、「大勢の支持を得たバズりツイート」をそのまま受け入れやすい土壌がある。5chのレスに評価ボタンはないが、Twitterにはあるため、容易く数字の正しさを受け入れてしまうことがある。つまり、個人と作品による対話ではなく、作品と他者の解説を享受する場になりやすいのだ。

 ここで起きるのは、作品の「講義化」ではないかと個人的には危惧する。例えば「シン・シリーズ」においても、キャラクターや特撮作品のオマージュなど、多くの解説が溢れている。それ自体は作品をより楽しめるスパイスになるのだが、いかんせんバズっているとその解説が“正しいもの”として映りやすい。そうなると、個人的な感想や考察が、その正しい解説に押し流され、多分に影響されてしまう可能性がある。それに慣れてしまうと、作品に触れても、対話より先に、誰かの解説を真っ先に得てしまいたくなるのではないだろうか。実際Twitterを見ていると、「自分にもっと教養があれば楽しめるのに」というツイートがあり、このツイート自体もバズっている。当然教養を得るには既に出されたツイートを得るのが一番手っ取り早い。そうなると、自分で考えることが疎かになるのではないか。

 作品の楽しみ方はそれぞれだが、作品と自分という一対一の対話は、自分の中にある思想や行動原理への見直しを促すこともある。作品を通して自分を省みる機会が減ることにワテは一抹の不安を覚えるのだ。誰かの教養を受動的に求めなくても、能動的に自分だけで作品に向き合っても楽しめる、という自信を忘れないようにしたい。

 

3:救われる者と、救いが許されないモノ

 今作はとても素晴らしい作品で、非の打ち所がないほどである。ただ、社会的事象を取り扱う中で、ワテが気になった点をネタバレ含みながら語っていきたい。

 気になったのは終盤に起こる突然すぎる転、主人公の相棒格の登場人物が、突然凶器を持った無敵の人に殺害されてしまう一連のシーンだ。その無敵の人の描写は、隠す気もないほど、現実で起こった凄惨な事件の犯人を意識していた。だがこのシーンは、本来亡くなってしまった登場人物が、作品の力(もしくは主人公の深い悔恨、やり直したいという思い)によって、パラレルワールドで登場人物たちが救われるシーンでもある。つまり、別々の道(世界線)ではあるものの、主人公たちはその道を歩み続けることを許されたのだ。

 確かに感動的な場面なのである。ただ、ここで唯一と言っていい救われていない人がいる。それは主人公の世界線で大量殺人を起こした、無敵の人だ。確かに、現実の某事件の犯人とリンクさせているので、多くの読者はこの人物を許すことはないだろうし、許されるべきとも思わないだろう。彼はもはや悪魔であり、バケモノのようなものだからだ。こんなヤツに救いが許されるのなんて有り得ない。

 しかし、その無敵の人は、本作では死を振りまく死神として描かれているが、当然人である。自然災害でもなければ、突然現れた異星人やモンスターでもない。主人公たちと同じ世界、同じ社会で生まれ育ち、そしてそうなってしまった人なのだ。現実の某事件の犯人も、その人生や家庭環境は酷いものであったことが分かってきている(※)。当然起こした罪は到底一人で雪ぎ切れるものでもないが、そうなってしまった経緯は確かにあるのだ。

 だが、パラレルワールドであっても、その無敵の人は救われることは無かった。許されざるモノとしての在り方しか許されない。殺人という罪を犯したモノは、例え世界線を移動したとしても、別の道を歩むことは許されないのだ。当然、主人公たちは全く罪を犯していないので、救われて然るべきではある。だが無敵の人も、生まれた瞬間にはなんの罪も無かったはずである。何処かから、人としての歯車が狂っていったのは確かである。であればこそ、彼もまた狂う前に救いがあれば、無敵の人にならず済んだのだ。ただそうはならなかったが。

 

 “Don't look back in anger.”

 

 この言葉は、主人公を通して、読者に訴えかけているのだろう。だがもっと早くに、無敵の人(彼)に、この言葉が届いていれば、そしてその(あの)凄惨な事件が起こらなければ、この怒りも生まれることは無かったのだ。

 怒りに任せず、ただただ、このような事件が二度と起きないことを願う。

 救われなければならない状況そのものが生まれない日々が続くことを、強く願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

※:「京アニ事件」から2年 青葉真司の「呪われた」家系図 祖父、父、妹が揃って自殺

デイリー新潮(2021,7/19閲覧)

https://news.yahoo.co.jp/articles/df1eccaa0f164cc1f5b1820e478807abca0c864b