『天気の子』と新型コロナウィルス 追記
友人から文藝春秋にワテの書いた内容と似た投稿があったと教えてもらったので、ワテも文藝春秋を買って確認をした。與那覇 潤氏(以下、與那覇氏)の『学者にできることはまだあるかい』を元に、ワテの駄文を追加していきたい。
読んでて感じたのは、「しっかりまとまった文章を書いててやっぱり大学の先生というのは文章書くの上手だな」という元学生の素朴すぎる感想だった。「ほえ〜」と言いながら読んでいたワテは、自分の文章構成力のなさを再認識しながら読んでいた。
読み進める中でワテは次の文章に注目した。
しかしこの春に私が驚かされたのは、
そうした監督の世界観こそが、「リア
ル」な日本の実像だったことだ。
この文章は、セカイ系とは「現実感覚に乏しいおとな子どものおもちゃ」と誹謗したあとに書かれている。ここで與那覇氏はリアルの日本国民こそが帆高と同じ思考で動いていたと論じているため、ワテの考えていたこととはやや差異がある。ワテは無辜の民とリアルの日本国民を重ねていたから。しかし與那覇氏も後半に文系学者を酷評して帆高の方がまだ成熟した「大人」だと評価(?)している。
セカイ系とリアルの実像については、確かにニュースでもネットでも「うちで踊ろう」と発信し、ロックダウンに否定的な言説は見当たらなかった。そして「自粛こそがみんなにできる英雄的行為」と人々の間で共有されていたと思う。「自粛する者」と「自粛しない者」という分断は、「自粛警察」と揶揄される存在の発生を後押ししたと考えても不思議ではない。誰もが“自分たち”と、“大切な人々”と「滅びゆくセカイ」の中で生きている。
そのどうしようもない「セカイ」を、「世界」に描き直す方法を、與那覇氏は文系学者に求めていたが、大きく裏切られたことを後半で語っている。
であるならば、我々はやはり主体的にこの問題について考えていくことが重要になってくると思う。我々が帆高の様に、世界が変わっても「自分と大切な人さえ助かれば気にしない」とするのであれば、世界を変えたこの事実を受け止めて、「大丈夫だ」と言うことで、この荒んだ「セカイ」を再び「世界」として認識していく一つのカギになるのではないだろうか。