三次元世界の淵に眠る

雑記ばかりを垂れ流します。ツイッターから一度離れてみようとした結果こうなりました。

『英雄戦姫WW』戦記〜ブラウザゲーへの回帰〜

最近英雄戦姫WWというブラウザゲーをプレイしている。シミュレーションRPGなのだが、紛うことなき「元はエロゲ」であり「今もエロゲ」である。というのも一般向けと成人向けの両方があるが、ゲーム内容はさほど変わりはない。そういうシーンがあるかないかくらいである(一部の人には重要な点であるかもしれないが)。

なぜこんなゲームをやっているのかというと、大学時代の思い出が多大な影響を与えている。当時、ワテは友人の家に入り浸って映画やゲーム三昧で淫蕩の限りを尽くしていた。ワテを含めて3〜5人くらいで過ごしたあの時間は大学時代の華々しい栄光の一つであり、陰キャ流の享楽を謳歌していた。

 

その中で『英雄戦姫GOLD』というエロゲを、友人たちと共に夜通し攻略したことがあった。このゲームクリアの過程はまさしく珍道中であり、語れば短編小説一話ほどになると自負している(全く褒められた自負ではないが)。例えば中華モンゴルを制圧して調子に乗って高ランクステージのエジプトに不敬なるも突撃し見事玉砕してしまったり、本来この作品のキモである濡れ場を必要なしと切り捨てキャラクターの喘ぎ声を聞きながら朝飯を食ったりしていた。狂人である。

 

そういった色褪せないデジタルティックで低俗な「オタクの青春」は、余裕の無さを体現している社会で生きるワテに「余裕」を与えてくれる。多くの人々が大学時代の思い出を糧として生きていくように。

また、このゲーム自体が絶妙な難易度のゲームシステムで、単純に面白いというのもある。大学時代攻略に明け暮れることができたのも、一重にこのゲームシステムによるものだ。

 

元々ワテはブラウザゲーに縁がなかったわけではない。数年前まで大流行していた『艦これ』をプレイしていたこともある。今は全て過去形になってしまっているが。ワテの使っているノートパソコンの仕様上、プレイできるブラウザゲーは限られており、DMMゲームはその制限内に収まっていた。

『艦これ』も『英雄戦姫WW』もDMMゲームなので、結局ワテはDMMのブラウザゲーに戻ってきたことになる。

 

さて、「戦記」という言葉遊びをタイトルで行なっている以上、ゲームのプレイ状況にも言及せねばなるまい。現在は限定キャラを除くと殆どのキャラクターがいる。wikiの情報不足感が否めない中、イベントに明け暮れており、ストーリーもまだまだ序盤にも関わらず中堅レベルになってしまっている。『艦これ』時代からのこだわりである「ほぼ全キャラ均等レベル上げ」も依然と行なっている。『英雄戦姫』シリーズの特徴として「高感度」というシステムがあるが、これもほぼ均等に割り振ってプレイしている。課金額は当に『英雄戦姫GOLD』の金額を超えてしまった。

 

おそらくこのまま『英雄戦姫WW』はしばらくプレイしていくと思う。思い出が色褪せない限り。思い出を色褪せさせない限り。

少女は理想の中で生きていく〜カードキャプターさくら:クリアカード編〜

数ヶ月前、テレビの番組表でカードキャプターさくら:クリアカード編を見つけた。調べたら去年放送されていたようで、再放送していたようだ。アニメの情勢を掴めなくなったことを痛感する。

 

私もかつてさくらちゃんの奮闘に一喜一憂していた者の端くれである。クロウカード編を見ていたのか、さくらカード編を見ていたのか定かではないため、端くれ中の端くれであるが。再放送は既に18話まで到達していたが、特に何も考えず予約をした。自身の性格上、1話から見ていきたいのが常ではあるのだが、そういうこだわりがなくなってきているのかもしれない。

 

ということで、今更ながら数話ではあったがクリアカード編を録画して最終話まで観た。最終回は来週も変わらず続きそうな終わり方だったので、思わず「えっ!?」と叫んでしまった。

 

約20年前の作品にこうして続編があることは、なんとも感慨深いものがある。当時さくらちゃんに釘付けだった少年少女は、ほとんどがその理想を過去に仕舞い込んで社会人となってしまっているだろう。当時さくらちゃんに見惚れていたオタクたちも、そのほとんどは古の碑文として捉えているのではないか。さくらちゃんをずっと思い続けていたかつての少年少女やオタクたちもいるとは思うが。

 

しかし、さくらちゃんは20年の歳月を経ても2、3年しか成長していない。淀んで暗く厳しい「現実」の中で生きていく「大人」になってしまったかつての視聴者(自分も含めて)と、明るく華やかな「理想」の中で今なおも生きていくさくらちゃん。その関係性から、時の流れの残酷さを感じずにはいられない。

 

だが、この幻想は20年間全く変わらず存在している筋金入りの理想だ。友人から、「魔法少女モノは理想的な家庭を描く不文律がある」と聞いた。確かに言われてみれば『なのは』も『まどマギ』も理想的な家庭を描いていた。二階建ての大きな家、高そうな家電製品や生活用品、店に出てきそうな料理が背景によく映される。そういった理想を見るたびに僅かな苦しみを感じるのは、「大人」になってしまった証左だろうか。

 

しかし『CCさくら』を見ていると落ち着いた心持ちになるのも確かだ。それは20年間変わらず命を吹き込み続けている声優陣や、暖かな色調で物語を彩るアニメーター陣のおかげだろう。緩急はあれども全体的に落ち着いているので、アニメ界のクラシック音楽と言っても過言ではない。

 

またいつか、必ずさくらちゃんに出会える日が来るだろう。あの理想に出会える日が。

今期アニメについて

生きてます(定型文)

今日からFGOバビロニアが放送するということで、ロードエルメロイⅡ世とFGOバビロニアは見ていきたい(ロードエルメロイは前期だが)。

のんのんびよりりぴーとはライフワークになりつつあるが、これも併用して見ていく。

りぴーとについては考察という名の妄想を貯め込んでいるので、近いうちにこちらにも載せたいと思う。

オタクをやめられない社会人について

ツイッターから流れてきた、このようなブログを読んだ。

https://anond.hatelabo.jp/20190902224917

 

「にゃるら」とは、精力的に活動しているオタクのライターだ。それくらいしか知らない。ただツイートは時々お気に入り登録している。

実際このブログもそのにゃるら氏から流れてきたものをワテは読んだ。

内容は簡潔に「いつのまにかオタクではなくなった社会人である自分」について語られていた。わざわざ自分がこのブログで紹介したのは、ある一定の共感を持ったからだ。

特にワテが共感できた箇所を紹介する。ただこれはコメントへの返信なので本文のものではないが。

 

            働いてる。給料は高くも安くもなく、

            忙しいわけでも暇なわけでもない。

            こういうフラットな日々の中で人は

            少しずつ緩慢になり、心臓を止める

            のだろうという諦観がある。

 

この文章は今年の7、8月ごろにワテが強く感じていた、「社会人」という呪いについて分かりやすく書いていると感じた。そうなのだ、幸せなことではあるのだろうが、その反面そこそこの給料とそこそこの仕事量が、オタクとしての活力を失わせているのをひしひしと感じていた。

大学の頃から、アニメや漫画から離れつつあったのは確かなのだが、今と決定的に違うのは選択肢としての優位度だ。大学の頃はアニメや漫画に触れようと思えば触れられたし、その機会も多かった。ただアニメや漫画以外の選択肢が豊富にあったため、見ていなかったに過ぎない。実際、衰退期のニコニコも毎日ではないがチェックしていたし、一気にアニメや漫画に触れ続けることもあった。

 

だが今は違う。今ワテが一週間のうちにしていることを平均してみると、ツイッターFGOと、日曜日に見るのんのんびよりりぴーとだけだ。しかものんのんびより不定期気味なので見ない時もある。

これがオタクと言えるだろうか?

引用文と似た境遇にいるワテは、この「俺はにゃるらになれなかった」者になりつつあるのだ。本文で示されているような生き方が見えてきている。「生きることに慣れすぎてしま」いつつあるのだ。「思い出の中に埋没することで安寧を得」つつあるのだ。その鬱屈したリアルが常に自分の体へ着々と付着していっているのが分かる。

応募しようとして、結局書きかけのまま死に体になってしまっている小説が、自分そのものを表してしまっている。「社会人」だとか「安定」だとか、「保障」だとか「将来」だとかという、絶大な効果を持つ不安感がまとわりついていく。不確かな未来を担保できるかも怪しいのに。

ニコニコもだいぶ見ていない。「狂乱と倒錯の中で生きること」は、大学卒業と同時に失っていたのだろう。

 

しかし、このブログに反論するならば、「オタクはいずれ卒業するべき」ものではないと言いたい。同じ境遇になりつつあるが、こんな「正しい姿」には拒否反応が出る。

何故なら、まっっったく楽しくないからだ。「生きることに慣れる」ことは、とてつもなくつまらない。ワテが少しでも人生をつまらなくないものにするには、やっぱりオタクであることだと思う。

大学は卒業したが、オタクは留年し続けていきたい。にゃるらにはなれなくても、のんのんびよりりぴーとを見ている間はオタクになれるのだから。

レトロの現実

不躾に伸びた名前も知らない植物で隠されている喫茶店が目についた。「自動ドア」と書いてある札が貼られた、ただの引き戸は開け放たれていた。ゆっくりと傘をまとめて締めながら入ると、腰が曲がった老婦人がコーヒーを嗜みながら新聞を読んでいた。

多くの文学作品では女性の容姿を多種多様な含蓄のある語彙を用いてその美しさを表現するが、当然ワテは文学作家でもなければ作家かぶれですらない。ただのしがない雑踏の一塵芥である。そんなワテには、45度くらいに曲がった腰、白から灰へと階調する髪、年季の入った眼鏡、80代前半のような皺にしか目がいかない。

客が来たことを認識した老婦人は「いらっしゃい」と口角を上げて言った。そんなことをさておいて、陰キャのワテは傘の置き場にあたふたとしていた。「そこに入れといていいですよ」と老婦人は言った。言葉に人柄の良さをまとわせていた。

以前座った席に荷物と尻を置く。ここに来るのは2度目だが、老婦人が覚えているのか判然としない。そのため微妙なコミュニケーションとなる。

「まさか食べもの頼まんでね?」と聞かれた。この店はメニューには喫茶店あるあるな食べ物が書いてあるが、もう作るのが難しいため事実上やめてしまっているのだ。レトロの現実だ。「いいいいいえいえ」陰キャが鳴いた。

「あっではなんにしましょう?」以前はココアを飲んだ。壁に掛けてあるお飲み物のメニュー表を見ると、ココアとロイヤルミルクティーとコーラしか値段を見せていない。あとは全て値段を消してある。レトロの現実だ。「あっじゃあロイヤルミルクティーで」陰キャはやや早口で注文した。すると老婦人は笑った。コミュ症具合を憐れんだのか、と思ったがそうでなく、「名前は大層なもんやけど、あんまり美味しくないで」と仰った。いいのかそれで。陰キャは苦笑いしながら「あっっ…じゃあ何かオススメとかってありますか?」と返した。すると老婦人は「まあやっぱりうちはコーヒーやねえ」とはにかみながら宣伝した。

まだあったのかコーヒー。前回はコーヒーを注文したところ、ちょうど切らしたと言われたので、今回もそんなことではと思っていたが、どうやら運が良かったようだ。「じゃあコーヒーでお願いします」と、台詞の頭に必ず「じゃあ」をつけてしまう陰キャは喫茶店でコーヒーを頼んだ。この単純な結果に至るまでに体感3分ほど時間を有した。レトロ喫茶のなせる技である(違う)。

 

茶店内を不審者並みに見渡す。アンティーク気味な古時計が壁に掛けられているが、ちょうど12時で止まっている。今は昼の3時、おやつの時間だ。右隣には絵本作家の描いたような絵が額縁に飾られてある。見たことのあるような絵柄だ。左隣にはメニューが貼られてある。

一通り見渡して満足したワテは、高校の文化祭で掠めてきた文芸部の冊子をコンビニのポリ袋から取り出した。高校生の作家魂を垣間見ていると、意外と早くコーヒーが来た。

 

ワテの舌は小五の夏(適当)から変わっていないので、基本的にコーヒーにはミルクと砂糖を入れる。サ店でよくある小さな金属容器に入ったミルクを全部入れる。レトロ調のガラス容器に入った砂糖を取り出す。若干湿気っていてやや固まっている。レトロの現実だ。崩しながらスプーン3杯分入れる。虚空を眺めながら1分くらいスプーンでコーヒーを掻き回す。ここからが喫茶タイムである。

 

高校生の作家魂に目を通していたが、何箇所かページの順番を間違えてホッチキス留めしており読みづらかった。「高村光太郎を主人公にするたあすげえチャレンジ精神やなあ」とか「この時代に統合失調症の概念あるんか?」とか「めっちゃヒロイン豪快な喀血するやん」とか思いながら読み終えた。他にも2つほど作品があったが、文学に向いてないのか活字が向いてないのか、途中で読むのをやめにしてしまった。中途半端な人間性が出てしまった。

冊子をポリ袋にしまい、スマホでこのブログを書き始める。喫茶特有の静かでゆるりとした空間を堪能した。レトロの現実だ。

「一通り書いたし、けえるか」と思い、残っていた冷め冷めコーヒーを飲み干す。カフェオレ好きなのに胃腸がコーヒーと牛乳に弱いので、腹に違和感を孕ませながら立ち上がった。

「ごちそうさまでした」「あっはいはい」

最後までゆるいのが心地よい。前回は結構老婦人と話したので、少し切り出してみた。「実は僕ここに来るの2回目なんですよ」間接的に覚えているかを確かめる。「ああやっぱり〜あんまりこんなとこに若い人こんき会った気がしよったんよ〜」老婦人がこたえてくれた。どうやら覚えていてくれていたようである。

そこから少し他愛ない会話をした。今どこに住んでいるのかとか、仕事の話とか、1年前くらい前に来たとか。そんな話である。お見合いでの会話ってこんな感じなのかな、とこの頭の片隅で耽りながら金を出して傘を持った。

「ではまた1年後にでも」

この喫茶のおかげか、緩い約束をして店を出た。レトロの現実はフィクションのように美しすぎはしない。しかし幻滅するほど汚くもない。

 

傘はもう必要なかった。レトロな風景に戻った喫茶店の外観を目に撮りこんで、ワテは家路へと向かっていった。

 

 

※場所は伏す

 

一人称について

「ワテ」という一人称をなぜ使っているかというと、はっきり言って大層な理由はない。

「私」は普通だし、「僕」はなんかボクっ娘の印象が強すぎて忌避感があるし、「俺」はなんか性格に合わないから採用しなかったし、「拙者」は古のオタクっぽいからいいなとは思うけどいちいち拙者言うのは漢字多くなるし、「自分」は準採用だけどこれも漢字多くなる。「おいどん」は字数多いし、「朕」は不敬だし、「あちき」「拙」「ウチ」などはしっくりこない。「ワシ」は某界隈の風評被害が懸念されるし、「ワイ」はなんj民でもないのに使うのは微妙だと感じた。

などといろいろ考えているうちに、ふと大学のある講義を思い出した。

必修科目である英語の講義であったが、気の良さそうな60代くらいのおじいちゃんが「ワテはなにわの商人(あきんど)でっせ〜」と言っていた。なぜその発言が導かれたのか思い出せないが、このセリフは今でも何故か覚えている。

「ワテ」は「ワイ」のようにおふざけが入りつつも、ネットでは使われているのをあまり見たことがない。「拙者」ほど狙いすぎず「私」ほど硬い表現でもない。これくらいがちょうどいいか、と感じて採用した。

 

改めて考えると本当に大層な理由がない。