三次元世界の淵に眠る

雑記ばかりを垂れ流します。ツイッターから一度離れてみようとした結果こうなりました。

アニメ『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 』感想 〜「導かれる者」から「導く者」へ 〜

 去年の12月上旬に、『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿』を完走した。遅くなったが、感想をつらつらと書いていこうと思う。

 

 まず作品について書いていく。かつて導かれる者であったウェイバーが、ロードエルメロイⅡ世となってから生徒を導く者として生きていく物語となっていた。Zeroの視聴者、読者からしてみれば、あのウェイバーがこうもたくましく活躍しているところを見れて感慨深いものがあるのではないだろうか。保護者目線といえば言い過ぎだが、型月主人公特有の肉体的精神的成長を間近で見ていく感覚をワテは持った。月並みな感想だが、Fateの設定を活かしながら物語が進行していて面白かった。EDの『雲雀』も個人的には好きな曲だ。

 

次にメタ的な観点から思ったことを書いていく。アニメ内ではウェイバーが過去と向き合いながらも、その過去を支えとしながらも自分の道を進む話として描かれている。その中で物語の佳境である7話以降の「魔眼蒐集列車」編は、「過去」を含めた「情報」がキーワードとしてよく出てきた。そこに現実を絡めて少し思ったことがある。

7話での会話の中で、ロードエルメロイⅡ世の台詞に「人は思い出に、情報に支配される」というのがある。これはもちろんイスカンダルとの思い出という情報に支配されているウェイバー自身に向けられている言葉である。それと同時に、この言葉をメタ的に考えると、情報社会であるリアルにも関わると感じた。「情報に支配される」のはSNSや多数のメディアの中に生きている視聴者にも言えることで、その中でウェイバーのように、自分自身が現実でどう生きていくのかを考える必要があるのだろう。

 

ロードエルメロイⅡ世については、型月作品の主人公に特有のテーマを持っているように思える。それは過去・現在・未来の連続性ではないだろうか。例えばFateシリーズでいえば、シロウとエミヤの関係性などはまさしく連続性の中にある。シロウにとっては現在と未来の対決、エミヤにとっては過去と未来の対決、そして対決の先にある運命がある。現在を生きていくシロウとウェイバーの境遇は在り方は違えど似ていると思う。他にも『空の境界』の両儀式や『月姫』の遠野志貴も、植え付けられた「過去」の境遇の中で運命の人に出会い、自分(たち)の愛を証明していく。

 

人は誰しも「過去」があり、「未来」があり、その認識の上で「現在」を生きる。ウェイバーは「過去」と決別するわけでもなく、また囚われるわけでもなく、「過去の自分」を認めながら成長していく。そういう連続性のある生き方に惹かれるものがある。

 

今回はここまで。