三次元世界の淵に眠る

雑記ばかりを垂れ流します。ツイッターから一度離れてみようとした結果こうなりました。

『ルックバック』感想 シン時代の「傑作」

 熱しやすく冷めやすいTwitterにおいて、瞬間的に反応された藤本タツキ氏の読み切り作品『ルックバック』。ワテも拝読した。

ネタバレを含みながらではあるが、感想を書いていきたいと思う。

 

1:シン時代の「傑作」

 タイトルでも書いたが、これは読み切り漫画の中でも傑作に入るだろう。起承転結の巧みさ、転で起きた4コマ漫画の伏線回収、物語のテーマに則したタイトル回収、タイトルの持つ意味の多義性、リアルの社会事象を取り込み社会派の一面も併せ持つ…143ページで二人の主人公の人生を彩りきった作品である。恥ずかしながら『チェンソーマン』は読んだことがないが、この作者であればその人気獲得ぶりは納得がいくほどのまとまり具合だと感じる。

 そしてなによりも「シン時代」と銘打ったのは、この作品について皆が語っている点に着目したからだ。タイトルや描写に隠されたネタに気づき語る人、全力で肯定する人、ジェラシーをもらす人…近年のTwitterでの現象として、解説系ツイートは特にバズる。人に何か語らせる作品は名作の証拠だろう。これは『シン・ゴジラ』や『シン・エヴァンゲリオン』でも同じ現象が起きている。当然金曜ロードショージブリ回や大河ドラマなどでも見られるが。ただ作品が公開され、それに触れた者の中から解説者が出現し、作品と解説を合わせて摂取するというのは庵野監督の「シン・シリーズ」で顕著に現れてきたと感じたため、このような銘にした。

 この『ルックバック』も「シン・シリーズ」のように、さまざまなネタが仕込まれた本作について解説し、そのツイートも共に拡散される。以前であればブログや雑誌、同人誌などで行われていたことが、非常にインスタントに行えるようになった。社会現象を起こすのは、もはや難しいことではないのだ。だからこそ「シン時代」と言えるだろう。

 

2:個人と作品の対話から、受動的な講義への危惧

 1点目の「シン時代」についての個人的な危惧も少し綴りたいと思う。確かに良作がバズることは喜ばしいことだ。作品が正当に大衆の評価を得られるのは、漫画文化が途絶えず現在まで残り、さまざまな媒体で読むことができるようになったからだと思う。

 しかし、その結果として、感情の共有や語り合いたいという欲求が簡単に満たせるようになり、個人と作品が向き合う機会や時間が無くなっていっている印象も受ける。当然、以前から2ch(5ch)などでは感想の語り合いがあったわけだが、Twitterに於いては、語り合いではなく、「大勢の支持を得たバズりツイート」をそのまま受け入れやすい土壌がある。5chのレスに評価ボタンはないが、Twitterにはあるため、容易く数字の正しさを受け入れてしまうことがある。つまり、個人と作品による対話ではなく、作品と他者の解説を享受する場になりやすいのだ。

 ここで起きるのは、作品の「講義化」ではないかと個人的には危惧する。例えば「シン・シリーズ」においても、キャラクターや特撮作品のオマージュなど、多くの解説が溢れている。それ自体は作品をより楽しめるスパイスになるのだが、いかんせんバズっているとその解説が“正しいもの”として映りやすい。そうなると、個人的な感想や考察が、その正しい解説に押し流され、多分に影響されてしまう可能性がある。それに慣れてしまうと、作品に触れても、対話より先に、誰かの解説を真っ先に得てしまいたくなるのではないだろうか。実際Twitterを見ていると、「自分にもっと教養があれば楽しめるのに」というツイートがあり、このツイート自体もバズっている。当然教養を得るには既に出されたツイートを得るのが一番手っ取り早い。そうなると、自分で考えることが疎かになるのではないか。

 作品の楽しみ方はそれぞれだが、作品と自分という一対一の対話は、自分の中にある思想や行動原理への見直しを促すこともある。作品を通して自分を省みる機会が減ることにワテは一抹の不安を覚えるのだ。誰かの教養を受動的に求めなくても、能動的に自分だけで作品に向き合っても楽しめる、という自信を忘れないようにしたい。

 

3:救われる者と、救いが許されないモノ

 今作はとても素晴らしい作品で、非の打ち所がないほどである。ただ、社会的事象を取り扱う中で、ワテが気になった点をネタバレ含みながら語っていきたい。

 気になったのは終盤に起こる突然すぎる転、主人公の相棒格の登場人物が、突然凶器を持った無敵の人に殺害されてしまう一連のシーンだ。その無敵の人の描写は、隠す気もないほど、現実で起こった凄惨な事件の犯人を意識していた。だがこのシーンは、本来亡くなってしまった登場人物が、作品の力(もしくは主人公の深い悔恨、やり直したいという思い)によって、パラレルワールドで登場人物たちが救われるシーンでもある。つまり、別々の道(世界線)ではあるものの、主人公たちはその道を歩み続けることを許されたのだ。

 確かに感動的な場面なのである。ただ、ここで唯一と言っていい救われていない人がいる。それは主人公の世界線で大量殺人を起こした、無敵の人だ。確かに、現実の某事件の犯人とリンクさせているので、多くの読者はこの人物を許すことはないだろうし、許されるべきとも思わないだろう。彼はもはや悪魔であり、バケモノのようなものだからだ。こんなヤツに救いが許されるのなんて有り得ない。

 しかし、その無敵の人は、本作では死を振りまく死神として描かれているが、当然人である。自然災害でもなければ、突然現れた異星人やモンスターでもない。主人公たちと同じ世界、同じ社会で生まれ育ち、そしてそうなってしまった人なのだ。現実の某事件の犯人も、その人生や家庭環境は酷いものであったことが分かってきている(※)。当然起こした罪は到底一人で雪ぎ切れるものでもないが、そうなってしまった経緯は確かにあるのだ。

 だが、パラレルワールドであっても、その無敵の人は救われることは無かった。許されざるモノとしての在り方しか許されない。殺人という罪を犯したモノは、例え世界線を移動したとしても、別の道を歩むことは許されないのだ。当然、主人公たちは全く罪を犯していないので、救われて然るべきではある。だが無敵の人も、生まれた瞬間にはなんの罪も無かったはずである。何処かから、人としての歯車が狂っていったのは確かである。であればこそ、彼もまた狂う前に救いがあれば、無敵の人にならず済んだのだ。ただそうはならなかったが。

 

 “Don't look back in anger.”

 

 この言葉は、主人公を通して、読者に訴えかけているのだろう。だがもっと早くに、無敵の人(彼)に、この言葉が届いていれば、そしてその(あの)凄惨な事件が起こらなければ、この怒りも生まれることは無かったのだ。

 怒りに任せず、ただただ、このような事件が二度と起きないことを願う。

 救われなければならない状況そのものが生まれない日々が続くことを、強く願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

※:「京アニ事件」から2年 青葉真司の「呪われた」家系図 祖父、父、妹が揃って自殺

デイリー新潮(2021,7/19閲覧)

https://news.yahoo.co.jp/articles/df1eccaa0f164cc1f5b1820e478807abca0c864b

『のんのんびよりのんすとっぷ』感想 〜田舎補完計画〜

 ネタバレ含みます。

 

 のんのんびよりシリーズが漫画、アニメ共に終焉を迎えた。残る希望はOVA化と映画化のみであり、テレビアニメとして4期がある可能性は0に近い。「もはやこれまで」である。

 

 『のんのんびより』シリーズを一言で表すなら、「日常モノとして真摯にリアルのオタクたちに向き合った作品」と言えるだろう。最終話でサザエさん時空から何事もなく脱して、いつものように日常を送る。しかしそこでは一人が卒業し、一人が入学するという新たな日常の到来が予期されている。今まで描かれなかった「卒業」を描き、既に描いた「入学」を見据えさせることで、学校という小さな社会(本作品の世界のメタファーでもある)における儀礼を有効活用している。「○○からの卒業」で終わらず、しっかり作品として世界の存続も担保したのんのんびよりは、求められた理想を見事に描き切ったと言えるだろう。「『さようなら』はまた会うためのおまじない」という某シン映画のセリフが思い出される。

 

 『のんのんびより』という作品は、さまざまな解釈を受け入れる下地がある作品だ。

 ある話はキリスト教的解釈を可能として、聖人誕生のメタファーという裏設定を幻視させる回もある(これは『のんのんびよりりぴーと』での解釈だが)。

 また登場人物と世界観は、一昔ふた昔前の美少女ゲーム全盛期を彷彿とさせ、実は男性主人公の存在しない美少女ゲームの世界なのではないかという00年代オタクの妄想を拗らせる要因ともなっている(ジャスコネタは言わずもがな、キャラデザも起因している)。

 さらに世界観に関連して、具体的な聖地が存在しないこのセカイは、あえてリアルの田舎を媒介しないことで、ギリギリ廃村にならない田舎を完全無欠かつ永久不滅の理想郷として、オタクの心象風景に補完させている。リアルの田舎を聖地化すればそれまでの田舎景観が崩れ、またブームが過ぎた後は時が過ぎすぎてしまい、作品の不滅性を損ねてしまう。どこにでもあって、どこにもないシュレディンガーの田舎にすることで、オタクに「『のんのんびより』の田舎」を残し、存在し続けられるようにしているのではないか。これこそ田舎補完計画と言ってもよいだろう。

 

 このような解釈を可能にする一方、本作品には徹底して日常モノに対する矜持が多分に含まれている。そしてその集大成は哲学者れんちょんによって締め括られているのだ。

「いつもと同じ道じゃないん。雨の時とか曇りの時とか、いつもちょっと違って楽しいのん。今日もいつもと違うお天道日和なん」

 

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原作一巻と最後のコマが繋がっている。さらに作画が変わったのもあるが、頭身が変わったことで登場人物の成長が見えるように感じる。

 

 このフィロソファーれんちょんの言葉が巧みなのは、日常モノに対して、否定と肯定を両立させている点だ。日常と言えども変化は常に起きており、その変化は必ずしもポジティブなものとは限らない。しかしそれでもそれらの日々もまた日常となるのだ。「雨」「曇り」というネガティブなイメージがつきやすいワードをあえて使用し、それをポジティブな方向に持っていくことで、日常に対する捉え方と強く結びつけられている。そして「今日“も”いつもと違う」という言葉選びも素晴らしい。無常であることを理解しつつも、その無常の中に連続性を見出したれんちょんは、小学1年生にして仏教哲学に足を踏み入れているのだ。

 

追記:

またタイトルの『のんのんびより』の「のんのん」の意味は、上記の考察から鑑みて「non  non」、つまり「無に非らず」であったり、「無の連続」であったりという意味になるのではないだろうか。

 

 本作品が連載されてから、リアルは数多くの震災に見舞われ、さらに現在進行形でコロナ禍の中にある。その中で「日常系」そのものへの懐疑的な見方や批判がされているのを目にするようになった。「日常は当たり前なんかじゃない」と。だが、これさえもまた日常なのだと宮内れんげは提言する。「当たり前の日常」という不変のものではない。だがそれでも生きている限り、当たり前ではないにしろ日々は続くのだ。こてこての「日常系」である本作品、引いては原作者あっと氏の、オタクに向けた「日常系」としてのアンサーがここに全て詰まっているだろう。

 

 『のんのんびより』はフィクションである。だがこのフィクションで描かれた日々は、単なる虚構ではない。「どこかで見たことがありそう」「どこかに存在してそう」「どこかに似ている」…虚構の中に現実を見出すことができるのは、本作品が田舎とその中での日々に対する想起を促したからだろう。この点において、虚構と現実は繋がっているのだ。

 

 田畑の畦道を歩くとき、ふっと季節の匂いが鼻をくすぐる。そこで一度立ち止まり、目を閉じ、彼女たちを思い出して呟いてみよう。「今日もいつもと違うお天道日和」と。たとえ不安定で鬱屈として、無常感漂う世界であっても、そこには確かに、元気でたくましい彼女たちの姿が描かれることだろう。

田舎補完計画とは、『のんのんびより』の視聴ないし閲覧によって、本作品のみを触媒にすることで田舎という名の理想的な世界を各個人の内面に創造し、また本作品を通じて統合することで、人類の疲弊感からの脱却を目的とした計画なのではないだろうか。

以前やっていたアニメの感想

FGOバビロニア』、『マギレコ』、『自縛少年花子くん』を見ていた。中高生時代に比べれば少ないが、最近のなかではまだよく見ている方だった。

 

FGOバビロニア

 序盤〜中盤にかけてはだいたい原作通りのまま進んでいた。戦闘シーンの力の入れようは凄まじく、ワテらの課金がこの作画の礎となったと思うと、課金してしまった後悔や反省が少し和らぐ気がした。特にレオニダスの宝具は、映像化されたことでfateシリーズの英霊らしさが上がっていた。

 ただ、物語が三女神同盟やラスボスのティアマト神との戦いになってくると、やはり時間の制限があるため削られていく部分もあった。総集編が途中挟んだが、これならfate/zeroのように前期後期でクールを分けて、話数を使って削られた部分の補填をして欲しかった。

 特に残念だったのは武蔵坊弁慶の宝具カットとジャガーマンの最終再臨での活躍だ。

 fateシリーズの英霊にとって宝具開帳は一番の見せどころであり、それが無いというのは卍解せずに退場させられる護廷十三隊の隊長みたいなものだ。ただでさえFGOの弁慶は、最初期からいるのに全くモーションも宝具も改修されていない低レアサーヴァントである。宝具を大幅改修して映像化されたレオニダスと弁慶の活躍の差は、いくら尺的な問題があったとしても残念でならない。名前を偽ったとはいえ、FGO関連の常陸海尊への風当たりは強い。そこまで厳しくしていいのは牛若丸だけで十分だろう。

 ジャガーマンは、ティアマト戦までずっとギャグキャラで浮いたサーヴァントであった。しかし圧倒的絶望を強いられた終盤においてギャグを捨てシリアスに主人公たちを助けていたジャガーマンは心強い味方であり、山の翁やマーリンに続く助っ人感があった。ただこのジャガーマンのカッコイイシーンはほぼ全てカットされてしまった。ギャグからシリアスのギャップが萌えならぬ燃えだっただけに、非常に残念でならない。山の翁がラフムを貪り食ってた並みのショックを受けた。

 最後の見せ場であるティアマト戦で作画が崩壊気味、ラフムがなぜか腕組み直立不動、山の翁がラフムを食うなど、最後の最後でテンションが下がるシーンもあったが、全体的には楽しめていた。

 

『マギレコ』

 叛逆の続編をまず先にやって欲しいがマギレコは面白かった。原作の設定を引き継ぎながら「ウワサ」や「ドッペル」、「マギウス」といった新要素も加えて、新しい魔法少女アニメにしていたと感じた。叛逆の続編をまず先にやって欲しいが。

 叛逆の続編をまず先にやって欲しいが、各登場人物の背景も丁寧に描かれており、特にドッペルの設定はまどマギにはなかったが、まどマギシリーズの世界観を上手く広げたと感じた。叛逆の続編をまず先にやって欲しいが。怪物(魔女)になるか悪堕ち(ドッペル)するかという今までの魔法少女ものを現代の鬱的社会に上手く混ぜ合わせるのはいつみてもすごい。叛逆の続編をまず先にやって欲しいが。

 叛逆の続編をまず先にやって欲しいが、マギレコも続きが気になる終わり方だったので2期を期待したい。叛逆の続編をまず先にやって欲しいが。

 

『自縛少年花子くん』

 サブカルアングラ学ランショタによる『学校の怪談』『ゲゲゲの鬼太郎』といった感じ。花子くんの露骨な狙って描いている印象を感じつつも、やはり狙っているだけあっていいキャラをしている。いつもはややSっ気があり余裕綽綽でよく人をからかうが本当は真面目で怒らせると怖い(DV感のある)一方、実はトラウマにめっぽう弱くヘナヘナになるギャップ萌え。さまざまな過去の作品からキャラクター性の記号を抽出し、花子くんに組み込んでいったかがわかるような気がした。ちなみに花子くんの弟であるつかさは、圧倒的かわいいショタ系DVサイコパスなので、こちらも抽出した記号を恣意的に組み入れている気がする。

 実際のところ5話くらいから見始めたが、内容も

わかりやすく設定も多すぎてもいなかったので楽しんで見れていた。

 

感想終わり。

『天気の子』と新型コロナウィルス 追記

友人から文藝春秋にワテの書いた内容と似た投稿があったと教えてもらったので、ワテも文藝春秋を買って確認をした。與那覇 潤氏(以下、與那覇氏)の『学者にできることはまだあるかい』を元に、ワテの駄文を追加していきたい。

 

読んでて感じたのは、「しっかりまとまった文章を書いててやっぱり大学の先生というのは文章書くの上手だな」という元学生の素朴すぎる感想だった。「ほえ〜」と言いながら読んでいたワテは、自分の文章構成力のなさを再認識しながら読んでいた。

 

読み進める中でワテは次の文章に注目した。

 

   しかしこの春に私が驚かされたのは、   

   そうした監督の世界観こそが、「リア

   ル」な日本の実像だったことだ。

 

この文章は、セカイ系とは「現実感覚に乏しいおとな子どものおもちゃ」と誹謗したあとに書かれている。ここで與那覇氏はリアルの日本国民こそが帆高と同じ思考で動いていたと論じているため、ワテの考えていたこととはやや差異がある。ワテは無辜の民とリアルの日本国民を重ねていたから。しかし與那覇氏も後半に文系学者を酷評して帆高の方がまだ成熟した「大人」だと評価(?)している。

 

セカイ系とリアルの実像については、確かにニュースでもネットでも「うちで踊ろう」と発信し、ロックダウンに否定的な言説は見当たらなかった。そして「自粛こそがみんなにできる英雄的行為」と人々の間で共有されていたと思う。「自粛する者」と「自粛しない者」という分断は、「自粛警察」と揶揄される存在の発生を後押ししたと考えても不思議ではない。誰もが“自分たち”と、“大切な人々”と「滅びゆくセカイ」の中で生きている。

 

そのどうしようもない「セカイ」を、「世界」に描き直す方法を、與那覇氏は文系学者に求めていたが、大きく裏切られたことを後半で語っている。

 

であるならば、我々はやはり主体的にこの問題について考えていくことが重要になってくると思う。我々が帆高の様に、世界が変わっても「自分と大切な人さえ助かれば気にしない」とするのであれば、世界を変えたこの事実を受け止めて、「大丈夫だ」と言うことで、この荒んだ「セカイ」を再び「世界」として認識していく一つのカギになるのではないだろうか。

『天気の子』と新型コロナウィルス

新海誠の『天気の子』は、前作の『君の名は。』に続いて大ヒットした。多くの考察や批評がネットでも見ることができる。ワテはそれらの批評もつまみながら、現在「世界」的な災害となっている新型コロナウィルスと結びつけて、駄文を残す。

 

ネタバレだらけになるため、まだ観ていない方は注意していただきたいと思う。

 

 

 

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↑自宅から撮った『天気の子』っぽい雲。夏になるとアニメで見られるような雲がよく浮かんでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ー 「愛にできることはまだあるかい」 ー

 

今、「世界の形を決定的に変えて」いきつつある。それは主人公とヒロインという限定的な者たちによるものではなく、我々一人ひとりによって。

しかも、おそらく「世界」は、帆高が見たラストの水没した都市のように劇的に変わるのではなく、思想や価値観、法律や制度といった目に見えにくいところから変わっていくと感じる。それはたった1〜2ヶ月で変わってしまったテレビや新聞をはじめ、インターネットの状況をワテが現在進行形で見ているからだ。

 

ある娯楽施設は、その店名を公表され、世間から社会的制裁を今受けている。

ある飲食店は、家賃や人件費を払えない中、今なお満足な補償のないまま自粛している。

ある自治体は、県内在住者用にステッカーを作成し、県外ナンバーへの犯罪行為や嫌がらせがある中で、県外と県内と分け人々の差別意識を助長し分断させている。

新聞やニュースでは常にそういう内容が繰り返し報道され、Twitterをはじめネット上では(ある意味平常運転かもしれないが)そういった個人の自由を侵害する内容を支持している。

多くの教育現場は停滞を余儀なくされ、ただでさえ格差が深刻な教育の供給は、これから更にその格差が広がり、深刻な状況に陥る児童生徒が増えていくことだろう。

経済はひどく落ち込み、多くの店が閉じ、多くの人が解雇され、それによって経済格差が広がり、今まで以上に人々が貧しくなっていくことだろう。

 

あの水没した東京では描かれなかった部分が、現実の世界で次から次へと出てくる。だからこそ今、変わりつつある世界で、ひどく人々が傷ついていく世界で、この歌詞を思い出したい。

「愛にできることはまだあるかい」

 

 

- 「セカイ」と「世界」 ー

『天気の子』で描かれた「水没した東京」。そこでは延々と続く雨の中、大きく変わってしまった東京でも人々は“新しい生活様式”に順応していた。それは陰鬱としているものの、日常を営んでいるように見えた。

現実世界でも、“新しい生活様式”の実践が唱えられている。新型コロナウィルスも、これから常に気を付けていく必要がありそうだ。日々のニュースやネットを見ても、新型コロナウィルス流行前とは明らかにその雰囲気は違っている。テレビでは常に人の行き来が数値化されて監視されているところからも明らかだろう。

 

セカイ系」作品である『天気の子』は、天候という一見すると人類が手出しできない自然現象によって、東京という彼ら彼女らの住む「世界」が決定的に変わっていった。しかし下記の参考文献ではこの「自然」がミソであり、またそれを陽菜という天候を操ることができるヒロインによって象徴的に表している。一方の現実世界は、ウィルスという自然物と、現代人の営みが合わさることで驚異的な速さで「全世界」が変わっていった。

『天気の子』で象徴的な「自然現象の変化」は、フィクションの想像を超えてすぐに現実のものとなったと言えるだろう。むしろ、この現実こそが『天気の子』のテーマに恐ろしいほど合致していると言えるかもしれない。

 

 

 

ー 我々は「大丈夫だ」と言えるか ー

物語の最後、帆高は言う。「僕たちは、大丈夫だ」と。この台詞や作品への批評については、下記の参考文献に解説されている。正直ワテは完全に理解してないと思うので、ワテが説明するより実際読んだほうがいいだろう。雑で端的に言えば、「若者と大人たちの対比」であり、且つ「社会への批判」であろうか。

ともあれ、タイトル通り我々は帆高のように「大丈夫だ」と言えるのか、と言うことを考えていきたい。

 

我々は無意識のうちに、滝のような情報量に絶えず浴びせ続けられて、そして流されてはいないだろうか。お決まりになった「新聞・テレビ・ラジオ」などのマスメディアとTwitterを筆頭とするSNSなどからなるソーシャルメディアで、我々は無意識のうちに無関心な大人になっていないだろうか。ただ現状を「自然と」受けれ入れていって、この社会の現状を当たり前にしてしまってはいないだろうか。

今こそ、我々は帆高のセリフに直面していると言えるだろう。「僕たちは世界を変えてしまったんだ」。我々は、マスクで隠された口から「大丈夫だ」と言って、この社会の責任を主体的に引き受けていけるだろうか。

 

我々は帆高のように生きていくことも、水没した東京で暮らす大人たちのように生きていくこともできる。そのためにも、とりあえずもう一度『天気の子』を観る必要がありそうだ。

 

 

 

 

 

 

参考文献

映画『天気の子』を観て抱いた、根本的な違和感の正体,戸谷洋志

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66422

 

なぜ帆高は「僕たちは世界を変えてしまった」と2度言うのか──『天気の子』における自然と責任の衝突,杉田俊介

https://unleashmag.com/2019/08/23/tenkinoko_review/

最近やっているゲームについて

いつの間にか今期のアニメが4、5話ほど放送されているくらいに更新してなかった。

アニメについて語ろうかとも思うが、今回は最近やっているゲームについて書いていこうと思う。

 

今やっているゲームは『Fate/Grand Order』、『英雄戦姫WW(X)』『アークナイツ』である。ザ・今時のオタクという感じだ(『英雄戦姫WW』は当てはまらないかもしれないが)。ここに『グランブルーファンタジー』と『アズールレーン』が入ればナウいオタク完全体だろう。『ブルーオース』もやればアルティメット完全体だろう。流石にこれ以上増やそうとは思わないが。

今回はこの3つのゲームについての印象をつらつらと書いて徒然を解き消していこう。

 

1,『Fate/Grand Order』(以下『FGO』)

プレイ年数が今年で5年になる長期スマホゲー。『艦これ』よりもプレイ年数が経ってしまったことに若干の恐怖を感じる。そんな『FGO』だが、始めた理由は一応Fateシリーズだからという以外にない。当時は期待をあまりしておらず、シナリオさえ良ければいいと思っていたことをよく覚えている。実際当初はゲームとしては酷いものであったと思うが、シナリオしか気にしていなかったため、あまりストレスは感じなかった。

5年もプレイする中でシナリオにも若干の不満を感じることもあったし、今も不満がないと言えば嘘になるが、それなりに課金もするユーザーの一人としてまだ現役である。朝のAP消費と仕事終わりのAP消費が日課になってるあたり、中毒者の自覚を持ってしかるべきだろう。

好きなサーヴァントは挙げるとするなら蘭陵王、シュバリエ・デオン、アストルフォ、柳生宗矩。マシュと両儀式は限界まで育てている。型月の主人公(ヒロイン)は運命的に強いので、原作再現的な思いで取り組んだ。

 

2,『英雄戦姫WW(X)』

以前の記事で言いたいことは大体書いてはいるので特筆することはあまりない。アニメの視聴と『艦これ』は長続きしないのになぜこのゲームが長続きしているかも以前の記事に答えがある。

ゲームの内容に言及すれば、とりあえずアキレスという美少女がいれば基本何とかなるゲームである。彼女一人でゲームバランスを覆してしまうほどの力を持っているため、ある意味原典通りと言ったところか。

こちらは『FGO』と一転してシナリオは壊滅的だが、ゲームバランスは安定している(アキレスを除いて)。こちらも当分は続けていくだろう。

 

3,『アークナイツ』

ちょうど1ヶ月ほどプレイしているタワーディフェンス系のゲーム。友人に誘われて始め、見事に中毒者になっている。このゲームの存在は、わざわざデジタル中国へ赴き情報を仕入れて楽しんでいた別の友人によって以前から知ってはいたが、なかなかオタクの「ツボ」をよく押さえられている。

シナリオやキャラクターは所謂「硬派」と言うべきか、暗鬱とした本編の物語に加え、キャラクターもなかなかにシリアスな側面を見せる者もいる。

主人公とキャラの関係性において、『FGO』が対等、『英雄戦姫WW』が優位と大まかにカテゴライズするなら、『アークナイツ』は劣位な部分が多分にある。ゲームオーバーになると主人公の采配を罵る者もいるほどだ。だがそこがいい。

ゲーム内容も非常にバランスが取れており、適度なストレスと戦略性を刺激する。書き連ねた3つの中からおすすめをするなら『アークナイツ』になるだろう。

 

原稿用紙3枚分という短い記事だが、Twitter慣れした人間にはこれが今の限界だろう。逐次更新していきたい(今のところ叶ってないが)。

アニメ『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿 』感想 〜「導かれる者」から「導く者」へ 〜

 去年の12月上旬に、『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿』を完走した。遅くなったが、感想をつらつらと書いていこうと思う。

 

 まず作品について書いていく。かつて導かれる者であったウェイバーが、ロードエルメロイⅡ世となってから生徒を導く者として生きていく物語となっていた。Zeroの視聴者、読者からしてみれば、あのウェイバーがこうもたくましく活躍しているところを見れて感慨深いものがあるのではないだろうか。保護者目線といえば言い過ぎだが、型月主人公特有の肉体的精神的成長を間近で見ていく感覚をワテは持った。月並みな感想だが、Fateの設定を活かしながら物語が進行していて面白かった。EDの『雲雀』も個人的には好きな曲だ。

 

次にメタ的な観点から思ったことを書いていく。アニメ内ではウェイバーが過去と向き合いながらも、その過去を支えとしながらも自分の道を進む話として描かれている。その中で物語の佳境である7話以降の「魔眼蒐集列車」編は、「過去」を含めた「情報」がキーワードとしてよく出てきた。そこに現実を絡めて少し思ったことがある。

7話での会話の中で、ロードエルメロイⅡ世の台詞に「人は思い出に、情報に支配される」というのがある。これはもちろんイスカンダルとの思い出という情報に支配されているウェイバー自身に向けられている言葉である。それと同時に、この言葉をメタ的に考えると、情報社会であるリアルにも関わると感じた。「情報に支配される」のはSNSや多数のメディアの中に生きている視聴者にも言えることで、その中でウェイバーのように、自分自身が現実でどう生きていくのかを考える必要があるのだろう。

 

ロードエルメロイⅡ世については、型月作品の主人公に特有のテーマを持っているように思える。それは過去・現在・未来の連続性ではないだろうか。例えばFateシリーズでいえば、シロウとエミヤの関係性などはまさしく連続性の中にある。シロウにとっては現在と未来の対決、エミヤにとっては過去と未来の対決、そして対決の先にある運命がある。現在を生きていくシロウとウェイバーの境遇は在り方は違えど似ていると思う。他にも『空の境界』の両儀式や『月姫』の遠野志貴も、植え付けられた「過去」の境遇の中で運命の人に出会い、自分(たち)の愛を証明していく。

 

人は誰しも「過去」があり、「未来」があり、その認識の上で「現在」を生きる。ウェイバーは「過去」と決別するわけでもなく、また囚われるわけでもなく、「過去の自分」を認めながら成長していく。そういう連続性のある生き方に惹かれるものがある。

 

今回はここまで。